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四万十川100kmウルトラマラソン体験記【第8章】

第8章 ゴール "YES"、自己と宇宙との同一

 時刻は夕方の5時近くになっていた。木々に囲まれた川沿いの狭い道は一段と薄暗くなり、係員の人たちが道路脇のところどころに臨時の夜間照明を灯す準備にかかっていた。照明が点灯される前にはこの山道を抜けたいと願いながら黙々と走っていたら、人家があらわれ視界が急に開けた。

 坂を下りたところでUターンして街中に入るための最後の上り坂に入った。ところがこれが手ごわかった。この坂を走って上りきる体力はすでに残っていない。ここは無理せず早足で歩いた。
 坂道を上りきると今度はゆるやかな下りに変わった。しばらく走ると前方に係の人が立っていて誘導に従って右に曲がった。それから住宅地の細い路地を右に曲がったり、左に曲がったり、上ったり、下りたりしているうちに、ようやくゴールの県立中村中学校・高等学校の校門が見えてきた。

 校門をくぐって左に折れ体育館を迂回すると運動場に出た。その先にゴール・ゲートが目に入った。私は最後の力をふりしぼって直線を全速力で駆けた。午後5時17分、ついにテープを切った。タイムは11時間47分08秒。目標にしていたサブ12を達成できた。天候はいつしか小雨に変わり、あたりは薄暗くなっていたがまだ明るさは残っていた。

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 すぐさま、妻が駆け寄ってきた。雨が降りしきるぬかるんだ運動場で長いこと私の到着を待ってくれていた。私は妻に感謝を込めて思わずホッペにチュウをした。本当は唇にキスしようと思っていたのに、カメラの手前、こちらを向いてくれなかった。
 やり遂げた達成感はひとしおだったが、24時間テレビみたいに感激の涙を流すとか、そういったセンチメンタルな気分にはなれなかった。もっとドライな感慨に浸っていた。

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記録証を手に完走記念メダルに口づけをする。

 いちばんの収穫は極限的な状況の中で宗教的とも哲学的ともいえる境地に到れたことである。空海の「入我我入(にゅうががにゅう)」、道元の「信心脱落(しんじんだつらく)」、法然の「三昧発得(さんまいほっとく)」、親鸞の「無上仏」といった偉大な高僧たちが語った、自己と宇宙との同一、自己が仏と融合した法悦の感情、自己が自己から抜け出ていくエクスタティックな脱我体験のほんの入り口にふれられたように思えた。

 66年、前衛芸術家オノ・ヨーコの個展を見に来たジョン・レノンは、脚立を登って虫眼鏡で覗いた天井のキャンバスに小さく書かれていた"YES"を見て人生観が変わった。ジョンとヨーコが出会ったとされる有名なエピソードだ。

 そう、"YES"なのだ。
 80km地点で私は「まだ20kmもある」ではなく「残り10km台しかない」と自分に言い聞かせた。さらに「すでにフルマラソンを2回分も走っているのだから20kmはたいしたことがない」とか、「いつも走っているホタルの里までの往復コースと同じ距離しかない」とか、「ゴールのことは考えず、つぎのエイド・ステーションまで走ることに集中しよう」とか、状況をつねにポジティヴにとらえることができた。そのことを無理矢理にではなく、わりと自然にできた。
 反対に、あの場面で悲観的になっていたら完走できなかったかもしれない。苦しさも痛みも"YES"と素直に受け入れられたから、自分に〈LOVE〉がふりそそいだのだと思う。これまでジョンとヨーコのメッセージを青くさい理想主義だと思っていたが、頭の中だけのイメージではなく体感してしまったのだからどうしようもない。

 ネガティヴな感情からは何も生まれない。どんなことでも肯定的にとらえていく"YES"。すべてを等しく受け入れる"YES"〈LOVE〉とは共にあること。〈LOVE〉は、すでに、つねに、ここに、そこに、いたるところに(「Here,There & Everywhere」)ある。ただ気づいていないだけである。それに気づかせてくれるのが"YES"なのだ。

〈終〉

あとがき
 このエッセイは、四万十川ウルトラマラソンでの貴重な体験を忘れないうちに、情景を思い出しながら率直に書きとめたドキュメントです。ボブ・ディランやビートルズの曲の場面などは作為的なにおいがしますが(記憶にまちがいがないかぎり)すべて実話です。創作だったら"YES"やLOVEなんてこと、とても恥ずかしくて書けません。ブログにアップ後、自分の文章を読み返してみて澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を思い出しました。最後まで読んでいただいてありがとうございました。

   平成28年12月1日
       塚原立志

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Author:tpokjazz
月平均走行距離200〜300kmの早朝型フォアフット・ランナー。好きな音楽は、ワールド・ミュージック、ロック、ジャズ、ソウル、ファンク、Jポップなど、ディープでコアな音楽全般。

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